さまざま園や、そこで詠まれた句を調べていて見つけたエッセイ 『若き日の松尾芭蕉』 の前書きを読んで、こういう見かたもあるのか・・・と興味を抱き 作者の著書「伊賀の人・松尾芭蕉」を購入した。
朝日新聞に、2018年4月18日から60回連載されたエッセイ「芭蕉の横顔」に加筆し、再構成したもの。
文春新書
2022年1月20日発行
税別¥850、
北村純一著
神格化された芭蕉ではなく、人間芭蕉を描いている。
学者の論文調でなく、私のような素人でも理解出来るようなわかりやすい言葉で書かれていて、ボチボチ読むつもりが一気に読み切ってしまった。
著者は上野市(現・伊賀市)生まれで、現在はお隣りの名張市在住、桃青中学校・上野高校に通っていたそうで、ガチ ”伊賀の人” です。
よく言われる芭蕉忍者説にも触れている。
曰く、
1・・・伊賀の生まれで、出目が無足人だったから。
2・・・母が百地の家系である。
3・・・(奥の細道の旅程などから)健脚であったこと。
本書では、可能性は低いが、バイプレーヤー/サポーターだった可能性はあるかもしれない・・・と記している。
芭蕉忍者説については三重大学の研究者が・・・
1、芭蕉は無足人(準士分)の末流だが、父の代ではすでに農民であり、伊賀者(忍者)とは別の身分である。
2、母の出生は百地氏と関係づけられない。
3、当時の人と変わらない移動距離である。
と、忍者説を否定している。
そもそも忍者説の起源は、1966年(昭和41)に光文社から発行された 『「東京の旅」松本清張・樋口清之共著』であり、以後 結論先決めで理屈をつける形で発展したものだと論じている。
ただし ”奥の細道”に同行した門人の曾良(そら)については否定せず、「蓋然性がある」としている。
※蓋然(がいぜん)性とは、
おそらくそうだろう・・・とか、可能性が高い、という意味。
ちなみに 三重大学には「国際忍者研究センター」があり、忍者史・文化を専門に研究している。
本書にも、曾良が幕府の巡見使(情報収集担当官のようなもの)だったことが明記されている。
また 芭蕉が江戸に出てから生涯にわたっての支援者(パトロン)だった杉風(さんぷう)は幕府出入りの御用商人(魚問屋)だったらしい。ほかにも米問屋・廻船問屋などいろんな業界の支援者がいたようだ。
芭蕉のまわりには武家や豪商、医者など、人脈やらコネがあっただろうし、忍者ではなかったにしても、まわりには芭蕉を隠れ蓑に活動していた人物がいてもおかしくない。
芭蕉もそれを、(パトロンと持ちつ持たれつの関係で)黙認あるいは容認していたのかもしれない。
話がそれるが、
「東京の旅」が発行された1966年(昭和41)頃って、忍者ブームだったのか、1962〜1965年にテレビドラマ『隠密剣士』「主演:大瀬康一、従者の忍者が 霧のとん兵衛(牧冬吉)」というのを毎週見ていたのを思い出す。
『隠密剣士』が終わった後、大瀬康一主演の現代劇「バックナンバー333」も懐かしい。私立探偵みたいや役でダイハツ コンパーノ・スパイダーで颯爽と現れるんだよね。
(このドラマに子役で麻丘めぐみが出ていたなんて・・・知らんかった。クルマのことしか覚えていない。)
著者が日本ペンクラブ電子文藝館掲載の「若き日の松尾芭蕉」の冒頭で(創作であると断りつつ)良忠公とのボーイズラブ的関係に言及している。
芭蕉の職務は料理人、台所用人、厨房係などと言われており、小姓も兼ねていたとか、小姓に抜擢されたという説もある。
著者は、二人は主従関係を超えた親しい間柄で、これに近いものがあったと信じて疑わないと述べている。
no+e ← ここにも記述があり、
「小澤實(みのる) 磯田道史 対談」 で検索するとヒットする。
小澤實氏は俳人、磯田道史氏は歴史学者。
聡明な美少年を側(そば)に置くのは当時の文化であり、そう特殊なものではなかったのだろう。
元禄時代はボーイズラブの黄金期だったとか。
芭蕉は、当時 和歌の下位に位置する「俗」の文芸としての俳諧を、和歌の域まで高めることに生涯をかけた人である。
なぜ俳諧の地位が低かったのか、
当時流行っていた貞門派は古典のもじり・言語遊戯(言葉遊び)、談林派は笑い・滑稽の追及(悪ふざけ・軽佻浮薄)・・・、とても芸術性が高いものではなかったのだ。
芭蕉は、宗房時代は貞門派、桃青時代は談林派に傾倒していた。
1672年(寛文12)、29歳、伊賀から江戸へ。
江戸に出て来た当初は売名にも精を出し、”発句なり 松尾桃青 宿の春” のような自己PRキャッチコピーみたいなチャラい句を詠んでいる。(こういうの人間臭くて好きだなあ)
一旗揚げてやろうと江戸に出て来たんだから、まず目立ちたいよね。
宗匠として独立するまでの一時期、副業で上水(水道)工事(例:神田上水の浚渫工事など)にも携わっている。(たぶん事務方)
服部氏は幕府の警備担当、藤堂家と言えば築城の名手、さらに藤堂新七郎家屋敷のとなりには西嶋八兵衛(高名な土木技術者)の屋敷があった。コネが効いたとしてもおかしくない。
1677年(延宝5)、34歳 努力のかいあって、俳諧宗匠として独立。
私のような凡人なら、”これで生活も安定するし順風満帆でこの先も安泰だ・・・”と満足してしまうだろう。
でも 芭蕉は違う この程度の成功では決して満足しない。
1680年(延宝8)、37歳の時、突如 日本橋から深川へ転居し隠棲してしまう。
門人から贈られた芭蕉の株を庭に植えたところ、良く茂ったことから芭蕉庵(第一次)と呼ばれるようになり、好んで芭蕉号を名乗るようになった。
今までの ”目立とう”路線から ”目立たぬように”路線に変わっていく。
旦那衆のお遊びに付き合うの(点者生活※)が飽きたとか、内縁の妻が駆け落ちしたとか、いろんな説がある。
※点取俳諧
発句や連句を点者(宗匠)に見せて、採点(批点・加点)してもらい、その点数を競う。
1682年(天和2)、39歳、江戸の大火で芭蕉庵が消失し、命からがら逃げ延びる。
(その後芭蕉庵は門人のカンパで再建されている「第二次」。)
この一件で無常観を悟ったのか?、わび・さび路線に傾く?。
1683年(天和3)、40歳、貞門派・談林派への決別宣言のような句を詠んでいる。
”腐れたる 俳諧 犬も くらはずや” (くされたる はいかい いぬも くらわずや)
めちゃキツイ、ボロクソや。 もう わび・さび路線まっしぐらやね。
40歳すぎから旅中心の生活になっていく。
1684(貞享元)8月〜1685年(貞享2)4月末、「野ざらし紀行」の旅。
東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。大和〜美濃大垣〜名古屋〜伊賀上野(越年)。
奈良〜京都〜大津〜名古屋〜塩尻・甲府を経て江戸へ帰るまでの9か月に及ぶ旅。
”野ざらしを 心に風の しむ身かな”
1986年は旅に出なかったんだろうか?
1687年(貞享4)8月14日、名月を見るため鹿島・潮来をたずねた旅。
鹿島根本寺、鹿島神宮を訪れている。
1687年(貞享4)10月25日〜1688年(貞享5)4月23日、「笈の小文」の旅。芭蕉44歳〜45歳。
江戸から尾張ー伊良湖ー伊賀(越年)ー伊勢ー伊賀※ー吉野ー和歌の浦ー奈良ー大阪ー須磨を経て、4月23日京都に入るまでの6か月の旅。。
”旅人と 我名呼ばれん 初しぐれ”
芭蕉の死後、1709年 門人によって 『笈の小文 (おいのこぶみ)』として刊行された。
※伊賀滞在時(3月頃)、「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」 を詠んでいる。
伊賀には、けっこう帰郷しているようだ。
芭蕉は多くの俳諧・俳文、紀行文を残しているが自身の名前で撰集を出したのは 『貝おほひ』だけである。
1688年(貞享5)8月11日〜8月下旬、更科紀行。45歳。
8月11日 岐阜を発ち、名月を見るため信州更科へ旅に出る。木曽を経て8月15日更科に到着。姨捨山(おばすてやま・長野県千曲市)の名月を見て善光寺より碓氷峠を経て8月下旬江戸へ帰る旅。
(「笈の小文」の旅の帰り道ってことかな?)
1689年(元禄2)3月27日〜9月6日、「奥の細道」の旅。 46歳。
(旅の資金にすべく芭蕉庵を売り払っている)
3月27日、江戸を発ち奥羽(東北)・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに美濃大垣へ着くまでの約2400キロ、日数約150日に及ぶ旅。
”夏草や 士(つはもの)どもが 夢の跡”
(この旅で江戸を2年半ほど留守にしている。江戸に戻ったのは1691年(元禄4)
終点(結びの地)の美濃大垣から舟で伊勢まで行き、伊勢滞在後 伊賀に向かう山中(長野峠か?)で詠んだ句。
”初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり” はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり
(上野小玉町は、上野天神祭の時に着る法被に、この句を染めぬいている)
奥の細道以降、路線変更? (亡くなる5・6年ほど前から?)
世の俳諧が、作り手の心情を露骨に盛り込むようになり、句体が重くなってきていると嘆き、なるべく主観的な句にはせず、むしろ客観的視点で、日常の生活を詠み日常の言葉を大事にする ”かるみ” を目指すようになる。
普通なら、”わび・さび”路線 で一世風靡したんやから、今さら俳風変えんでもええやん・・・て思うよね。
現状に安易に満足しない、妥協しない・・・って凄い人だね。 スクラップアンドビルドって感じで、ついて行く門人は大変だっただろうな。(”かるみ”を唱えてからは離反者も多かったみたいだ)
芭蕉没後、蕉門がバラバラになってしまうのも、うなづける。
芭蕉を生涯支援した杉風は、1692年(元禄5)、「第三次」芭蕉庵を新築している。
追記
奥の細道以来、芭蕉が長期間留守にしていた江戸では「前句付け」が流行っていた。これにはかなり憤慨したようだ。
題として出された 七 七 の前句に 五 七 五 を付け、優劣を競う遊戯的なもの。
笑点の大喜利でやっているやつですね。
例:お題 ”切りたくもあり 切りたくもなし”
付け句 ”盗人を 捕らえてみれば 我が子なり” (うまい 座布団一枚ってやつ)
この付け句の”五七五”が独立して川柳に移行する。
江戸時代中期の川柳に ”役人の 子はにぎにぎを よく覚え” と言うのがある。
宗教と一緒で、同じ教義でスタートしても解釈の違いで分かれて行き、互いにいがみ合うようになる。 果ては〇〇しあうようになってしまうことも・・・開祖も嘆いているだろう。
死の4日目に詠んだ ”旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る” は辞世の句ではなく病中吟だったそうで、ある意味自虐ネタのようだ。
九州行きを楽しみにしていたらしく、死ぬ気などさらさらなかったのだろう。
長生きしていたら、また俳風が変わっていたのだろうか?・・・と つい想像してしまう。
芭蕉は
要領がよく、やんちゃ、モテ男、心配りの人、努力型の秀才、営業力あり、安住・定住を望まない、バショウ好き、月オタク、ミニマリスト、悲しいまでのストイックさ、理想は乞食(こいじき)行脚、(上に)へつらわず(下)に奢らず、禁欲主義の堅物ではなく人間性にあふれた偉大な俗物。
自らの俳諧を、”夏炉冬扇”(かろとうせん=必要のないもの)と言い切っている。
(そうなってはいけないと言う戒めか、あるいは自虐ネタか?)
主家、友人、師匠、弟子の暖かい支援や友情に包まれ、それに甘え続けたキャラクター。
これは 非難でも皮肉でもない、支援を惜しまなくさせるその品格への称賛だと述べている。(今で言う、推し活)
本書巻末で、芭蕉は人並みに栄達(出世、功名)を望む煩悩多き野心家だった。その偉大さは、いかにその煩悩を捨て、聖人と称えられるまでに自己陶冶(じことうや※)したかにあり、そのひたむきに精進したプロセスに人は心を揺さぶられるのだと結んでいる。
※自分の人格・能力・教養などを、自らの努力で鍛え、高めていくこと。
今まで 俳諧と俳句の違いもはっきり知らなかったので、ちょっと おさらい。
俳諧は、五 七 五 の発句(ほっく)に 七 七 の脇句を付けて成り立つ。
司会者ばまず、 五 七 五の発句を詠み、相手が 七 七 の脇句を付ける。この繰り返しが連句になる。
句合(くあわせ)は、五 七 五 の句を二つ並べて優劣を競うもの。
俳句は、明治期の俳人 正岡子規が 発句(五 七 五)部分を独立させ、俳句と名付けたのが始まりである。
また 子規は、芭蕉をいたずらに神格化することを否定し(優れた句もあるが過半は悪句・駄句である)、その一方で埋もれていた与謝蕪村を高く評価している(蕪村推し)。
芭蕉を貶めているのではなく、芭蕉の人格や句の良し悪しも分からずに、ただ盲目的に芭蕉を神格化し、宗教の開祖のように崇拝する俳人や宗匠たちを、子規は「月並流」の「俗宗匠」と呼び、蔑み こき下ろした。
芭蕉に心酔していたからこそ、当時の風潮に我慢できなかったんだろう。
一方 芥川龍之介は「日本の生んだ三百年前(ぜん)の大山師(おおやまし=詐欺師)と喝破した。
詩人というには余りにもスケールの大きい精力的な芭蕉に対するほめ言葉だった。
さらに、世故人情に長けた苦労人、数百人から二千人とも言われた門弟操縦の英雄的手腕・・・と評し、賞賛を惜しまなかった。
昔から引っかかっていた句
”松島や ああ松島や 松島や”
季語があらへんやん(季語が無い無季俳句というのがあるらしいが)、と いつも思っていた。
あまりの景観に次の言葉が出なかった・・・の意味だそうだが、これでいいなら いくらでも もじれる。
”富士の山 ああ富士の山 富士の山” あまりの景色に言葉が出ない。とかね。
ネット情報では、やっぱり芭蕉が詠んだ句ではなかった。
江戸時代後期の狂言師・田原坊が『松嶋図説』(観光ガイドブックのような物)用に作ったフレーズだそうだ。
元の「松嶋や さて松嶋や 松嶋や」が変形し、芭蕉作と誤って伝わったものらしい。(納得)
神格化された芭蕉の為せる業か。(芭蕉に罪はないが)
芭蕉の神格化は没後数十年後あたりから始まったらしい。
よく聞く句なんだけど、作者についてはまったく知らないというのがある。
思いついた句を並べてみると・・・
”やせ蛙 負けるな一茶 これにあり” (さすがに、これはわかる)
”我と来て 遊べや親の ない雀” (一茶)
”春の海 終日のたり のたりかな” (これが蕪村だったのか!)
”柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺” (正岡子規)
正岡子規が2002年野球殿堂入りしてるんだって、ちょっと意外
調べたら、東京大学予備門在籍時、野球に入れ込んでいたらしい(まだ元気な頃)。
”草茂み ベースボールの 道白し” など野球に関する句をいくつか詠んでいる。
愛媛・松山にベースボールを広めたと言われている。
文学を通じて野球の普及に貢献した功績で、野球殿堂入りした。
”目に青葉 山ほととぎす 初鰹” (素堂・芭蕉の友人!)
私は今まで、芭蕉と言えば ”わび・さび” 一筋だったと思っていたが、本書を読んで 最初は貞門派からスタートし、談林派に傾き やがて独自の俳風を築き、晩年になっても俳風が変化(変節)していることを知った。
何度も読み返すうち、芭蕉俳諧の究極の理念 『不易流行』(ふえきりゅうこう)と言う言葉を見つけた。
曰く、”不易を知らざれば基(もと)立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず”、 ”その本(もと)は一つなり”。
即ち、不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない(古いものを大切にしつつ、新しいものを取り入れる)。 両者の根本は一つである。
「温故知新」とよく似ているが、「温故知新」は古いものに重点を置くのに対し、「不易流行」は新しいものの方に重点を置いている。
私感として思うことは・・・
古典(和歌)重視の貞門派からスタートし、自由で笑いの要素が強く庶民受けする談林派を経て、独自の俳風(わび・さび路線)を確立するが、わび・さび路線が庶民の生活と乖離していく・・・(日々の生活に追われる庶民には、世間から離れてひっそり暮らすことも、気楽に旅に出ることもままならない。芭蕉のような生き方・生活はとても真似できない)・・・と、”かるみ”を唱える。臨機応変とも言えるが、これも不易流行なのかなあ。
芸術性を高めようと突き詰めると、(富裕層は別だけど)庶民には真似できない、日常とほど遠くなっていく。普及に足を置けば質が落ちる。そのあたりの兼ね合いが難しい。
現代の俳句は、伝統的な有季定形型(季語+五七五)に拘束されず、話し言葉・無季や自由律などを用いて日常、個人的な内面、社会的テーマなどを自由に詠むのが大勢らしい。これって芭蕉が晩年唱えた”かるみ” とも思えるんだが・・・。
子供が小学生の時詠んだ夏休みの宿題の句で、献詠俳句で入選した二句を良く覚えている。
小2、 ”バンガロー かわのながれを きいてねる”
小6、 ”夕立ちの 迎え思わぬ 父の傘”
気に入っている、江戸時代後期の俳人・五味李峯(紀北町海山区矢口浦出身)の句。
”稚名を 呼ばるる里の 年始かな” (おさななを よばるるさとの ねんしかな)
晩年に差し掛かった我が身には、感慨深い句です。
五味李峯について検索しても、あまりヒットしません。 この句は、尾鷲の地域誌の正月特集に載っていた句です。
今年で芭蕉生誕382年、没後332年くらいなのかな、生誕385年(3年先)や390年(8年先)あたりにイベントがありそう。それまで元気でいたいなあ。
そういえば、2014年12月に 生誕370年周年のイルミネーションを撮ったことがある。
注・・・ネット情報+個人の思い付きの つぎはぎなので、いろいろ齟齬があるかもしれません。
2026年6月
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