旧上野警察署庁舎(伊賀陶芸館 丸之内倶楽部)のことを調べていて、1888年(明治21)に城内東大手に建てられたことがわかった。(ウィキには「第三警備駐屯所」と記載があった)
東大手門は前年の1887年(明治20)に解体されたもよう。

じゃ 西大手門は?・・・、1907年(明治40)に解体された。

古い城下町絵図を見ると、ずいぶん立派な外堀があったのがわかる。
南側の堀は、広(サ)十五間、堀長サ四百八十八間と記されており、メートルになおすと東西の長さ 約887m、南北の幅 約27mになる。

ハイトピア伊賀の基礎工事の際、堀埋め立て時の瓦礫が大量に出てきて、その処理のため工期が遅れたことを思い出した。
本町と背中合わせの丸之内に住んでいる人から、「長雨や梅雨時は湿気が上がる」と聞いたことがある。

今回のミッションは、
「外堀の痕跡を残す場所を探す」 。(内堀の跡も)


明治初期の城下町絵図

崇広堂、下屋敷の道、寺町通り、本町通り、二之町通り、西之立町通り、中之立町通り などは現在と同じなので、それを基準に古い絵図と突き合わせてみる。
東之立町通りは
(道幅が拡張された)現在の銀座通り。

絵図では、現存し一般公開されている上野相生町の入交
(いりまじり)家住宅や、上野忍町の赤井家住宅も確認できる。
東大手門を入った左には、成瀬平馬家
(長屋門現存)、その北側には芭蕉が若かりし頃仕えた藤堂新七郎家の屋敷もある。
玄蕃町
(下屋敷の道)にも藤堂新七郎家下屋敷および家臣の屋敷があったようだ。

成瀬平馬家長屋門の裏手には、忍者体験施設--万川集海(読み方わからん)が2025年8月にオープンした。
  万川集海 (読み=ばんせん しゅうかい)
忍術の秘伝は、本来一子相伝・口伝えを主としていたが、太平の世が続くに及び、歴史から消え去るのを危惧した藤林保武、藤林正武らによって延宝3年(1675)に完成した忍術の秘伝・奥義を記した書物。

城内左上の「県庁」部分は藩主の屋敷(御殿)があった所で、維新後は県の役人の宿舎になったのかな。
現在は上高のグラウンド。

城内右上の「佐々木復四郎」邸あたりが、桃青の丘幼稚園(元
桃青中学校)だろう。
「芭・記」=芭蕉翁記念館、「馬」=馬岡医院、裁=裁判所、
上野郵便局、=滝井医院、「陶」=伊賀陶芸館-丸之内倶楽部、×=清水眼科、「」=井本薬局。。


まずは西大手門跡を西に向かう

 A

 B 南(左)側の上野幸坂町は一段低い

 C 段差あり、この辺が城内の南西角かな

伊賀線の線路を越えて、
Cの北側延長先へ

D
左(西)側に段差あり (Cの延長線上)

E
突き当りが上野高校グラウンド

国道163・西大手交差まで戻る

F
左(西)側との段差がけっこうある
H  Fの反対方向から
      西側の外堀の幅は、12〜17間、 約22〜31m。


西大手門跡まで戻り、東へ

I
西之立町通りと、かぎ型で交差している
J 成瀬平馬家 長屋門
K
突き当たりが元上野図書館
    道路の南側が、幅15間 約27m の外堀。  道路部分は城内。


天神さんの裏へ回る
L 上野天神裏(北東)の駐車場
このあたりが外堀東南角か?
M L地点の延長線上
滋賀銀行上野支店と滝井医院の間

N 奥は行き止まり

          東側の外堀の幅は、12間、約22m。


滝井医院横の坂(下屋敷の道・上野玄蕃町)を登る

O

P
玄蕃町の一番高い所から西方向

Q ここを進むと平野樋之口に出た
 O 
下屋敷の道の中央右(東側)に木々が鬱蒼と茂っている所があります。
芭蕉が若かりしころ仕えた藤堂新七郎家の下屋敷があったあたりです。
若き日の松尾宗房
(むねふさ、後の芭蕉)は、二代新七郎良精(よしきよ)の子 良忠に仕えます。
俳諧を嗜んでいた良忠の影響もあり、芭蕉も俳諧の道に入ったとされています。 良忠は芭蕉の2歳年上で蝉吟
(せんぎん)という号を名乗っていました。
1666年(寛文6) 良忠が25歳で早世した後は奉公から退きます。 その後1672年(寛文12)、29歳で江戸へ旅立ちます。
1688年(貞享5・元禄元) 帰郷の際、三代新七郎良長
(良忠の遺児、号は探丸=たんがん)に花見に招かれた時、亡き良忠公を偲び 「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」と詠み、探丸は 「春の日はやく 筆に暮れ行く」と脇句を付けています。 
その後 下屋敷の庭(八景亭)は様々園と呼ばれるようになりました。

上野恵美須町の山渓禅寺に、歴代新七郎家と良忠(蝉吟)公の墓所があります。
良忠(蝉吟)公は家督を継ぐ前に亡くなったので、歴代新七郎家とは別になっています。


さまざま園のことを調べていて、面白い本を発見。

ウェッジ刊 『芭蕉の風景(上・下)

日本ペンクラブ電子文藝館 にも
『若き日の松尾芭蕉』
(小説) 、『兄ィと呼んだ芭蕉(抄)-其角の思い出(評論・研究)など興味深い記事がありました。


駄句を一句
  さまざま園 保存しとけよ 文化都市  
(らん太郎)

”さまざま園”は季語にならんか、じゃ 川柳だな。

 



Q地点まで戻り、石段を登る

R



桃青の丘幼稚園の前(横)に出る
左、郵便局。右は平野見能、平野山之下。

S
 Pの対岸(東向き



坂を降りて郵便局の横を通過・・・

U 逆方向から上野郵便局

T
元上野図書館、ぎり城内東南端か
外堀跡の探索終了



上野市駅の北へ

V

芭蕉が若かりし頃仕えた藤堂新七郎家の屋敷跡




W
左に蛇池、道を挟んで右にだんじり会館
このあたりから奥(北側)に向け南北の長さ90間(約163m)の堀があったようだ。 3分の1は空堀だったらしい。
伊賀にいる頃は、宗房(そうぼう)
江戸に出てからは、桃青
(とうせい)
芭蕉を名乗ったのは深川に隠棲した(38歳)頃から。
別号に、釣月軒
(ちょうげつけん)、夭々軒(ようようけん)
坐興庵
(ざこうあん又はざきょうあん)、栩々斎(くくさい)
華桃園
(かとうえん)、素宜(そぎ)、風羅坊(ふうらぼう)
鳳尾
(ほうび)、羊角(ようかく)、羽扇(うせん)などがある。
上野では親しみを込めて 『芭蕉さん』と呼びます。
土地柄ゆえ 夏休みの宿題の中に、”俳句を三句詠む” というのがあり、幼少時から俳句に親しむ環境があります。 
転入者の私は全然知らなかったことで、子供が小学校に入って初めて知り驚きました。
   えぇー 小学校1年生で俳句 詠むの・・・。
芭蕉命日の10月12日に毎年開催される芭蕉祭
(しぐれ忌)の献詠俳句には、全国から(海外からも)句が寄せられます。(数は少ないですが幼稚園児のものも)


西小の裏へ、内堀跡を往く・・・
X 西小の裏手(北側)、幅22mの堀跡。 空(から)堀と記されている古絵図もあった。


公園観光案内所側から中に入る
  絵図によると、駐車場あたりは牢屋だったんだなぁ。
Y 幅6間半、約11.8m。
Z
 幅12間、約21.8m。
Z
                     このあたりも空堀だったのか

俳聖殿を右に見て、下る


堀跡はここまで、石段を登ると公園広場に出る





a

石段の向かいに小径があったので降りてみる
(公園にはよく来るけど、今まで気が付かなかった)




   
   C
   降りてきた逆方向
  土留めの杭丸太の状態も良いので、手入れされてるようだ。

   今の子供はこういう所で遊ばないんだろうなあ。

   e

e

     逆方向から
                     北谷馬場へ続いていた道っぽい
内堀跡の東半分、探索終了。

マピオンのキョリ測では、上野幸坂町西端から上野天神宮の後端まで889m、2mの誤差があるが、ほぼ予想と合致する。


この日の最高気温 27℃、 日焼けしたせいか風呂に入った時腕や顔がヒリヒリした。
普段 何気なく通り過ぎている所にも、いろんな歴史があったんだなぁ・・・と、つくづく思う。


撮影日:2026年 5月 14日


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